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純音楽家・遠藤賢司の伝説
言葉の強さと優しさでファンを魅了

遠藤賢司は、1947年1月13日生誕、昨年の10月25日に70歳で死去した茨城県出身のシンガーソングライター、自称「純音楽家」。彼は時代ごとに音楽のアプローチを変えてきた。いや、基本は変わっていないのかもしれない。私自身、熱烈なファンとは言えなかったが、彼が表舞台に出てくる時は、素直に嬉しく応援したものだった。私のファーストコンタクトは残念ながら、「カレーライス(1972年)」でも「夜汽車のブルース(1970年)」でもない。アルバム『東京ワッショイ(1979年)』の時期。遠藤賢司がフォーク歌手としてスタートしたことも知らなかったが、そのインパクトは強烈だった。テクノ?ニューウェイブ?遠藤賢司はテレビ画面を所狭しと暴れまくっていた。放送されたのは千葉テレビの音楽番組だったと記憶している。「東京!東京!東京!東京!ワッショイ!(ワッショイ!)」連呼とシャウトの美学に「これこそパンクだ!」と直感的に感動した。

時代の空気を閉じ込めた名盤

後追いで名曲「カレーライス」を聴いた。切ないメロディーなのだが、なんともいえない幸せな空気が流れている。同時期に三島由紀夫が割腹自殺を行う。歌詞にさりげなくそのニュースも取り入れているが、猫とキミと僕の間には、ただカレーライスのおいしい匂いが漂っている。この曲は「遠藤賢司 黎明期LIVE!」というCDで聴いた。弾き語りに、せみの声が効果的に鳴り響いている。どの曲も素晴らしい当時の空気を閉じ込めた名盤だ。

君も猫も僕も
みんな好きだよ カレーライスが
君はトントン 
じゃがいもにんじん切って
涙を浮かべて たまねぎを切って
バカだな バカだな 
ついでに自分の手も切って
僕は座って ギターを弾いてるよ
(カレーライス)

世代を超えた人気

80年代は地道なライブ活動が多く、発表した作品は少なかった。90年代に入ると、遠藤賢司の音楽活動はライブを中心にさらに活発となり、音楽はよりストレートなものになっていく。時にはノイジーなギターと共に弾き語り、トリオのロックバンドも結成した。1981年には『史上最長寿のロックンローラー』も発表。なんとこのアルバム(いや、アルバムではない1曲入りのシングル!)、60cm×60cmの巨大なジャケットに、CDやすごろく(?)、巨大な段ボールに印刷された歌詞カード、メンバーの手形サインなどが同封されていた。ライブでの熱い演奏も話題となり、若い世代にも注目されていった。「エンケン」の愛称で親しまれ、自らの音楽を「純音楽」というジャンルで括り、音楽に対してストレートに向き合う姿勢は多くの若いミュージシャンにも支持された。※浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』の主人公「遠藤健児」は遠藤賢司から拝借してるという。

「夢よ叫べ」は円熟期を迎えた遠藤賢司風演歌。名唱、名曲である。この曲と共に紅白出場を夢見るが(壮大なるジョークだったかもしれない)、その前に病魔に倒れてしまう。

ぶっきらぼうに見栄はって
どんなに強がっていても
本当はね
誰でも哀しくて
泣きたい夜だってあるよ
それでも見なよホラ
可愛いじゃないか
涙も知らぬげに
ソウサ~ ソンナ~夜に
負けるな友よ
(夢よ叫べ)

遠藤賢司は非常にシャイだった。いつまでも少年のような感性を持っている人だった。ところがステージに立つと、むき出しの感情がストレートに爆発。その歌詞に共感する人、勇気付けられる人がファンになったのだと思う。本人も「コンサートは来てくれた人に『よし、俺もがんばろう!』って感じさせるもの。」と語っている。もう叶わないけど、同じ空間でこの曲を大声で合唱したかった。

年をとったとか
そういう事じゃないぜ
俺が何を 欲しいか
それだけだ
そう俺は本当に 馬鹿野郎だ
だから わかるかい
天才なんだ
「頑張れよ」なんて
言うんじゃないよ
俺はいつでも最高なの
(不滅の男)

(文・なかじまやすお)

なかじまやすお

小学生の時にクイーンのボヘミアン・ラプソディを聴いて洋楽に目覚める。 ほうきをマイクスタンド代わりに物まねをしていた恥ずかしい青春。いまだに ロックを卒業できないことに誇りを持つ。現在、サウンドハウスにて、 音楽コラム「不思議な音楽たまて箱」を連載中。

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