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若杉山遺跡のレイライン
辰砂と海洋豪族の繋がりから浮かび上がる歴史の真相

2019年3月1日、徳島県の山奥にある若杉山遺跡(阿南市水井町)がNHKニュースや各種メディアで取り上げられ、話題となりました。若杉山遺跡から赤色顔料である水銀朱の原料、辰砂が採掘されただけでなく、そこには人工の坑道跡が複数存在し、出土した土器片は弥生時代後期から古墳時代初頭1~3世紀のものと確認されたのです。奈良時代8世紀の長登銅山跡(山口県美祢市)が国内最古の坑道というこれまでの定説が覆され、それから5世紀も遡った時代に、辰砂の坑道が徳島で掘られていたことになります。それ故、阿南市と徳島県教育委員会はプレスリリースを通じて、若杉山遺跡が日本最古の坑道である可能性が高いことを公表しました。

史跡 若杉山遺跡
史跡 若杉山遺跡
しかしながら若杉山遺跡を訪ねて実際に検証してみると、疑問はつきません。何故、徳島県の山奥にて辰砂が採掘されたのでしょうか。人里離れた何ら目印もない山奥で、どのようにその岩場を探し当てたのでしょうか。1~3世紀の時代背景と辰砂の需要とは、どのような関連性があるのでしょうか。それらのヒントは魏志倭人伝などの中国史書や、元伊勢御巡幸の歴史的展開から見出すことができるだけでなく、若杉山に纏わる多くのレイラインを検証することにより、時代の流れと地域の関連性をより明確に理解することができるようになります。

段々みかん畑に潜む若杉山の不思議

太竜寺へ続く四国の道
太竜寺へ続く四国の道
徳島県の小松島市と阿南市の中央を流れる一級河川、那賀川の上流を四国霊場二十一番札所の太龍寺近くまで20kmほど上り、阿南市加茂谷地域に入ると、若杉谷川と呼ばれる支流へ分岐します。その川沿いに設けられた「四国の道」と称される遍路に沿って太龍寺を目指し、南方に1km少々歩くと、標高147mの若杉山の山腹に立てられた若杉山遺跡の看板と休憩所が目に入ります。その背後に流れる小川を渡り、山の斜面を登ると、目の前に突如として段々畑が広がってきます。そこが若杉山遺跡です。

若杉山遺跡の大きさは、幅が約50m、山の谷から上方に向けての長さは約150mです。若杉山は石灰岩層が急傾斜をなしており、岩石が随所に露頭しています。その斜面には階段層の段々畑が作られ、おびただしい量の石灰砕石が階段層の壁面にきれいに積まれています。段々畑の平面には80年代の遺跡調査が終了した後、杉が植林され、今日ではそれら杉の木が大きく育ち、立ち並んでいます。若杉山遺跡のエリアは、その段々畑から上部に露頭する巨石や石灰岩の岩場を含んでいます。実際の遺跡調査は、その段々畑の地面下を掘削して行われただけでなく、昨今の調査においては段々畑上部にある岩場の掘削口から坑道内へと発掘調査が進み、その広さや出入口の繋がりが、より明確にわかってきました。

遺跡の周辺一帯は全国でも有数の水銀鉱脈である水井水銀鉱山がある場所として知られています。その一角にある若杉山遺跡は、小さな谷間が入り組む谷底に近い山腹の斜面にあり、土壌の堆積が比較的少ないことから、石灰岩が随所に露出しています。それら石灰岩やチャートの割れ目には冷やされて固まった辰砂が存在し、水銀鉱床を形成していたのです。辰砂を含む岩盤は東西に広がり、若杉山遺跡から東北東に1kmほどの場所には由岐水銀鉱山、北方約800mには水銀の採取場として知られている中野遺跡も存在します。これら辰砂の掘削現場の中心的存在が、若杉山遺跡だったことが判明したのです。その歴史は弥生時代後期まで遡り、地域周辺に存在する複数の遺跡からも、これまで同時期に作られたものと考えられる土器片や銅鐸、石斧などが多数発掘されています。

きれいに埋め戻された段々畑
きれいに埋め戻された段々畑
若杉山遺跡に足を入れるとすぐに際立つのが、きれいに石積みされた巨大な段々畑の存在です。戦後、山の斜面にはミカンが植えられ、収穫されていました。1980年代に入り、ミカンの木を伐採して段々畑に杉や檜の植栽をすることが計画されたことから、長年にわたって足踏みしてきた遺跡調査が、1984年より急速な展開を遂げることになります。そして3年にわたる遺跡調査が行われ、終了した80年代後半には土壌が埋め戻されました。そこに杉の植林が行われ、段々畑と杉林が混在するような様相となりました。今日、若杉山遺跡は、辰砂工場であった古代の様相とは、かけ離れた姿になっています。

若杉山遺跡旧地形推定復原Y軸断面図
若杉山遺跡旧地形推定復原Y軸断面図
若杉山の段々畑の地形は、戦後、山の斜面が削られて改変されたものではないかという説があります。しかしながら、人が足を踏み入れがたい山奥の中、急斜面は45度を超える箇所も多々存在し、周辺には石灰岩の岩盤が地表から岩肌を露出しているような場所で、果たして段々畑を造成するでしょうか。急斜面と岩盤が際立つ地勢だけに、開墾が困難な場所が随所に散見されるだけでなく、遺跡調査時には周辺一帯から無数の破砕礫岩(はさいれきがん)が出土し、激しい土石流の痕跡も確認されています。たとえ戦後であっても、若杉山のような急斜面にてわざわざ山を切り崩し、ミカン植栽用の段々畑を造成したと考えるには無理があるようです。今日では地域周辺にミカン畑はあるものの、若杉山遺跡周辺に限っては、段々畑に適していた地のりであったとは言い難いでしょう。

石灰岩の岩肌が露出する急斜面
石灰岩の岩肌が露出する急斜面
若杉山の急斜面にある段々畑は、古代、辰砂の採掘を行う際に、様々な作業を安全にこなすために造成された作業場跡を活用したものと考えられます。段々畑の地面下には、人が作業しやすい人工の平面が古くから存在したからこそ、戦後、その地の利を活用して段々畑が造成されるきっかけになったと考えられます。若杉山遺跡の周辺には水銀鉱床を形成する地層が存在し、遺跡の東北東およそ1kmには江戸時代から掘削されていた日本有数の由岐水銀鉱山もあります。よって、辰砂の存在を知った古代の民は、採掘口から辰砂を取り出すための生産用具を加工し、露頭を削って辰砂を取り出す作業に必要な足場を確保するために、若杉山の急斜面に平坦な場所を設けたはずです。若杉山遺跡の発掘調査からは、少なくとも2か所の平坦面が確認されています。それら山の斜面に造成された作業場跡は大自然の中に後世まで温存され、戦後、平坦面に倣って段々畑が作られ、ミカンが植栽されたと推測されます。

若杉山遺跡調査の歴史

高く積み上げられた石垣
高く積み上げられた石垣
若杉山遺跡は1954年頃、地元住民が周辺の山を開墾した際、偶然に石窟と人骨が発見されたことから世間に知られるようになりました。そこから出土した石臼と石杵(いしきね)については、「発火用に用いたり掘り出した辰砂を粉末にするために用いたものらしい」と、「加茂谷村誌」に発表されました。その2年後、水銀鉱床に関する地質調査が徳島県産業技術振興会によって行われ、辰砂のついた石灰岩が散在することが、「四国鉱山誌」に掲載されました。1962年には徳島県による遺跡調査が始まり、多くの土器、壺の破片、人骨が出土し、「石灰岩の留積と混ざりて水銀鉱(辰砂)の破片が出土している」と報告されています。その際、近隣には古くから太龍寺が存在するものの、何の目印もない森林の一角となる若杉山まで山を登る必要性があったのか、という問題提起もされています。一方、早稲田大学の松田博士による「丹生の研究」においては、若杉山のそばを流れる那珂川の上流域に残されている、「仁宇」「小仁宇」「丹生谷」の地名が、辰砂の生産に絡んでいる可能性が極めて高いことが指摘され、それらの地名と若杉山遺跡の関連性がさらに追及されることになります。

1967年には早稲田大学の学生であった岡本氏による若杉山の遺跡調査が中学校の生徒らとともに行われ、多くの石臼と石杵がセットで周辺に埋没していることが確認されました。その後、これら発掘された遺物の多くは辰砂砕石用の石器ではないかという想定に基づき、同大学の市毛勲氏により遺跡の調査が開始されます。多くの石臼と石杵とともに土器などが改めて出土し、採掘された遺物の年代を調べたところ、弥生時代末期から古墳時代初期の所産であるという見解が示されました。その結果、1969年に市毛氏は、「朱の起源、日本古代辰砂工場跡見つかる」と、日経新聞に寄稿したのです。そして「古墳時代の辰砂採掘砕石址-徳島県阿南市若杉山遺跡のこと」と題した論文が「考古学ジャーナル」に発表され、さらに遺跡調査の詳細は「朱の考古学」という文献にまとめられました。これら一連の遺跡調査の結果、若杉山遺跡は「唯一の古墳時代の辰砂採掘砕石遺跡」として紹介されるようになり、阿南市史跡に指定されることとなります。

段々の層を上るための石の階段
段々の層を上るための石の階段
1984年、徳島県博物館は徳島考古学研究グループや阿南市教育委員会の協力を得ながら、「生産遺跡の調査」として、若杉山遺跡の第1次調査を開始します。当初の目的は遺跡の性格を把握するための試掘調査でした。結果、明確な遺構は確認できなかったものの、石臼や石杵(いしきね)、壺、甕(かめ)、高杯(たかつき)などの土器が多量に出土し、土器片においては破片数が2000点を超え、それらの多くが弥生時代後期のものと推定されました。また、辰砂原石と同じ層からシカの歯と顎骨も集中して出土し、イノシシの角や牙、骨なども発掘されました。食用とも考えられましたが、燔祭の儀式に動物が用いられた可能性も否定できません。これら多くの出土した遺物を検証した結果、若杉山遺跡は古墳時代初頭にかけての辰砂生産遺構であることが判明したという報告書が正式にあげられたのです。

急斜面の岩場が続く若杉山遺跡
急斜面の岩場が続く若杉山遺跡
翌1985年には文化庁の国庫補助金の受領が確定し、3か年計画に基づく本格的な遺跡の発掘調査が徳島県立博物館により始められることとなります。辰砂採掘砕石遺跡の調査は全国でも初めてのケースであり、3年間にわたる調査が第1次と合わせて4次まで実施されることになったのです。第2次調査では調査するエリアが広げられた結果、遺構面が発見され、それらはほぼ水平に作られていたことから、山の急斜面がL字状に掘られ、平坦な面が造られたと想定されました。また、遺物の中には石杵や辰砂原石だけでなく、再び獣骨や土器などが多数見出され、完形品の土器も出土しました。また、辰砂の採掘跡と考えられる岩盤の掘り込みや、土壙などの遺構も検出され、当時の生活面での様相を幾分、垣間見ることができるようになったのです。

第3次調査では土層の堆積状況を確認しながら、土壙の広がりなどが確認されました。作業場と想定される土壙が5基検出されただけでなく、中には石臼が据えられた状態で発掘されたものもありました。その他、多くの石杵だけでなく、勾玉などの遺物も発掘されました。また、石灰岩が積み上げられた形跡からは、それらが辰砂掘削時の残がいであり、そこに辰砂精製の作業場があったことがわかってきました。豊富な遺物の出土と共に勾玉も発掘されたことから、若杉山遺跡はまさに辰砂生産集団の遺作であり、その規模は古代、かなり大きかったことが想定されるようになりました。

最終の第4次調査では、複数の遺構が調査され、それらの繋がりから、辰砂が掘削された当時、標高の高いエリアでも辰砂が採掘されていたことが判明しました。前段の調査と同様に、土器や獣骨、貝殻などが多数出土しています。また、辰砂原石に限らず、第4次調査では鉄器や骨角器、そして炭化材も出土したのです。

様々な形に切られた石が積まれた石垣
様々な形に切られた石が積まれた石垣
4次にわたる遺跡調査は1987年に終了しました。遺跡調査の結果を統合すると、出土した遺物は石臼が40点、石杵は358点にものぼります。また、土器においては壺、甕、高坏、鉢など、生活に関わるものがそろって出土したことから、多くの人が若杉山周辺を生活の拠点としていたことが窺えます。ただし、多数の土器が出土しているのに、鍬や農工具の出土は全くなく、また、遺構においても住居跡は見つかりませんでした。おそらく当時の人々は、若杉山周辺でも地の利の良い場所に住居を構えたのではないでしょうか。いずれにしても、これらの調査結果から、若杉山遺跡は全国最古の水銀朱生産遺構という発表に結び付いたのです。

特筆すべきは、海と川、陸に生息する貝の片が2982点出土したことです。その大半はハマグリなどの鹹水(かんすい)産ですが、中には汽水・淡水産の2枚貝や陸産の巻貝も含まれていたのです。しかもそれらの陸産貝類が海に生息する貝類に混じって出土したのです。よって当時の調査においては、土石流により混入したか、当該時期だけに生息していたか、単に遺構内に生息していたかというような憶測だけにとどまり、判然としないまま検討事項として残されてしまいました。「若山杉遺跡は、那賀川の中流域に位置し、標高150m以上の高位の環境にあるにもかかわらず、鹹水・汽水域に生息する貝殻や魚類骨が出土している。これは、物と人間の移動を意味するものであり、辰砂生産に従事していた集団の生活形態を考察する上で、貴重な出土資料」と、当時の調査報告書はまとめています。

この謎を解明するヒントを、貝殻が出土された状態から見出すことができます。多くの貝殻はまとまって、しかも貝殻の堆積としてではなく、土圧で押しつぶされたような状態で出土したのです。これら多種にわたる貝殻の存在こそ、後述するとおり、若杉山遺跡が古代海洋豪族の一大拠点であり、そこに船が行き来した証と考えられます。まとまった貝殻の存在は、船底に付着した貝殻に関連するものではないでしょうか。古代、海や川、湖までも行き来する船だからこそ、その船底には様々な貝殻が付着したはずです。よって、船底を修繕し塗装するためには、それらの貝殻をまず削って取り除く必要がありました。その貝殻の残がいを集積したものが、埋蔵されたのではないでしょうか。だからこそ、出土した貝殻は、破損が一見不可解なほど激しく、その割れ方が類似している貝殻も多数発見されたのです。辰砂は船底を保護し、防水加工するための原材料として古代の海洋豪族が最重要視した資源であり、その一大掘削場となったのが、若杉山遺跡だったと考えられます。

1997年には「辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡-」という調査報告が発表され、遺跡から出土した水銀朱精製用の石器類などについて、詳細が記録されています。若杉山遺跡からは辰砂に限らず、辰砂の精製に使用する石杵(いしきね)だけでも40点以上、石臼(いしうす)については300点以上、その他、石器や勾玉なども多く出土しています。全国的に見ても辰砂を採掘する遺跡としては、前例のない大規模な遺構が徳島県に存在していたことが、改めて確認されました。

その20年後、2017年に始まった遺跡調査では、標高245mの若杉山の山腹にある岩場から、坑道跡と思われる横穴が存在することが確認されました。若杉山遺跡の坑道は、高さ0.7~1.2m、幅は最も広い箇所で3mほど、そして長さはおよそ13mもあります。その後も遺跡調査は継続して行われ、2019年2月、この坑道の入り口からおよそ3mの場所から出土した土器片数十点のうち、少なくとも5点については弥生時代後期、1~3世紀頃のものであることが特定されました。その結果、弥生時代では地表から掘削しながら辰砂を掘り当てていたという従来の定説が覆されることになったのです。既に弥生時代では、硬い岩盤をトンネル状に坑道を掘り、辰砂を採掘するという高度な技術が進み、徳島県の那賀川上流から辰砂が掘削されていたことが確認されました。また、石杵や石臼などの石器も多数、発掘されてきたことから、辰砂を用いて顔料に加工する作業も若杉山遺跡で行われていた可能性が高いと推測されるようになりました。そして古代、日本最大の辰砂坑道が徳島の若杉山遺跡に存在したことが明るみになるにつれ、いつしか辰砂の存在に絡んで、邪馬台国がその近郊にあったのではないかという話さえ囁かれるようになります。

海洋豪族が辰砂を欲した理由

辰砂は丹(に)とも呼ばれる資源です。中国湖南省の辰州が主産地だったことから、一般的には辰砂として知られるようになりました。色が赤いことから、朱砂とも呼ばれています。その鉱石を砕いて採取した粉が主成分となり、本朱の顔料になります。辰砂を加熱して発生する水銀蒸気と二酸化硫黄を冷却すると、水銀が精製されます。古代より水銀は大切な資源であったことから、十分な辰砂を確保することが重要視されたのです。水銀の元となる辰砂には多くの優れた効用があり、その用途は船の耐久性を向上させるための船底用塗料にとどまらず、古代から顔料、染料、朱肉、薬などに幅広く活用されてきました。また、墳墓にて死者を弔うために朱色の顔料を使用する風習も古くから存在し、弥生時代においてはすでに埋蔵する骨に水銀朱を用いた赤色顔料を塗布する事例が認められています。その後、古墳時代においても石室や棺、古墳の内壁や壁画の彩色だけでなく、由緒ある建造物や重要文化財にも多用されました。辰砂は防腐剤の役目も果たすことから、神社の鳥居を赤く塗る際に使われただけでなく、貴重な神殿の壁面などにも使われることがありました。また、古代では辰砂を含む赤土を顔や身体に塗ることがあり、これが化粧の始まりであったという説もあります。丹生都比売神社の由緒には、「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大臣の宣託により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」と記載されています。

日本では、およそ弥生時代から辰砂の採掘が広まったと考えられています。しかしながら辰砂の掘削は想定より、もっと早い時期から始まったようです。昨今の発掘調査では、縄文土器や漆器からも水銀朱が検出されていることから、その歴史は縄文時代にまで遡ることがわかってきました。また、遠い大陸の西アジアでは、紀元前10世紀頃、すでに造船の技術が発達していたことから、朱顔料を用いて船の防水加工を行っていた可能性があります。聖書の歴史書にはソロモン王の時代、タルシシ船が海を渡って世界各地を航海していたことが記されています。古代の民は今日、私たちが想像する以上の優れた航海術や造船の技術を習得していたと考えられます。

ソロモン王の時代から3世紀ほど過ぎた頃、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面した時、王朝を支えてきた南ユダ王国の豪族らは神宝を携えながら国家を脱出し、預言者らとともに船に乗り込んで東方へ向かったと推測されます。古代、日本建国に関わった中心人物は大陸からの渡来者であり、高度な航海技術と大陸からの優れた文化を携えて、海を渡ってきたと考えられます。よって、イスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来し、皇族の元となる歴史の土台を作った可能性が見えてきます。弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は大陸から渡来した国生みに纏わる一族の末裔に違いなく、優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていたと推定されます。だからこそ、元伊勢御巡幸でも船団が活用され、その後、邪馬台国の時代でも日本列島と中国を行き来することができたのです。

その海洋豪族が欲したのが、辰砂鉱山でした。辰砂には優れた耐水効果があることから、その使用目的の中でも、船底の塗装は最も歴史が古いだけでなく、耐久性に優れた船を造り上げるためには不可決な資源だったのです。辰砂を顔料とした本朱の塗料をしっかりと船底に塗ることにより、船底の腐食や貝殻の付着による被害が緩和し、船の耐久性が見違えるように向上します。そのため、いつしか海洋豪族は辰砂を求めて、特に紀伊半島と四国の徳島を中心に探索を進めたようです。しかしながら、往々にして鉱山は山奥に存在し、その場所を掘り当てることは困難を極めました。しかも掘削された鉱石の粉を山奥から運搬することは容易でなかったことは想像に難くありません。よって辰砂を含む鉱山の多くが河川沿いの山々に見出され、資源の運搬には船が多用されました。それ故、歴史の古い辰砂の鉱山は、和歌山県や三重県、徳島県に流れる大きな河川、もしくはその支流沿いにあるのです。古代、日本国内における辰砂の鉱山が河川沿いの山々にて掘削された理由は、その採取に携わった主人公が、川を船で行き来することを苦にしない古代の海洋豪族であったからに他なりません。

丹生都比売神社 楼門
丹生都比売神社 楼門
辰砂鉱山の中で最も有名な場所は、おそらく紀伊半島の吉野川沿いにある丹生であり、その中心には丹生都比売神社が建立されています。「丹生」には「辰砂が採取できる地」「辰砂を精製する氏族」という意味があることからしても、丹生都比売神社は辰砂と深く関わっていたことがわかります。丹生都比売神社の由緒には、「魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります」と書かれています。丹生という地名の背景には、辰砂の存在がありました。丹生都比売神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にその名を連ねています。そして今日、紀伊水道を渡った徳島側の若杉山遺跡が、日本最古の辰砂採掘の坑道として名乗りをあげたのです。

丹生の名称を含む神社や地名は紀伊半島を中心に広がっているだけでなく、若杉山遺跡のある徳島の那賀川上流にも存在します。那賀川上流を6kmほど上ると、そこにも仁宇と呼ばれる町があります。江戸時代に編纂された「阿波誌」の中に記載されている那賀郡の「丹生」と「小丹生」が、今日の仁宇にあたります。仁宇に居住の拠点を構えた丹生氏については、「丹生俊重伊勢の人、丹生谷に来居す」とあり、辰砂坑道の真下にある巨石
辰砂坑道の真下にある巨石
仁宇氏が伊勢から徳島の那賀川上流まで船で渡ってきたことがわかります。その他、「丹生谷」「木頭丹生」「丹生和食」などの地名も「阿波誌」には記載されており、若杉山の上流、那賀川沿いには仁宇神社とも呼ばれた八幡神社があります。つまり、紀伊半島の吉野川上流の丹生と、徳島の若杉山周辺の丹生は、双方とも辰砂の採取というテーマで結びついている地名であり、歴史的背景を辿ると、弥生時代後期という同じ時期、仁宇一族などの同一集団によって手掛けられた採掘場であったと考えられます。

元伊勢御巡幸後に始まる辰砂の探索

西アジアの高度な文化を携えてきた古代の海洋豪族が、辰砂鉱山の探索と掘削に直接携わっていたと想定するならば、その一族こそ、複数の船舶を用いて辰砂掘削の歴史を大きく動かした主人公であり、邪馬台国が台頭する直前の時代に終結した元伊勢御巡幸の先導者であった可能性が見えてきます。弥生後期、1~3世紀と言えば、中国大陸においては秦の始皇帝没後、およそ2世紀後に台頭した後漢から三国時代へと内乱が続く時であり、中国を逃れた多くの渡来者が、朝鮮半島から日本列島に流入してきました。三国時代は戦乱の幕開けであり、その三国のひとつが日本でもよく知られている魏です。当時、隣国の日本でも国家情勢は不安の坩堝にあり、大勢の渡来者が大陸から移住し続ける最中、国内の政治情勢は不安定を極め、天皇を中心とする国家の統治が難しい局面を迎えていました。

若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
紀元1世紀を迎える前後、その状況を打破するために、倭姫命による元伊勢御巡幸が断行され、80余年にわたる御巡幸の最終段においては船旅が計画されました。当時、造船所は主に琵琶湖の周辺や、その東方にあたる伊久良河宮(岐阜)などにあったことから、伊久良河宮から伊勢まで御一行は、船団に守られながら川を下り、海沿いを南下することになったのです。その任務を担い、倭姫命御一行と神宝を護衛したのが船木氏に代表される海洋豪族でした。そして無事、御一行を伊勢へとお送りした後、垂仁天皇26年には伊勢神宮が建立されました。

新聖地にて神が祀られた後、元伊勢御巡幸の立役者となった船木氏一族ら海洋豪族は伊勢周辺に自らの集落を築き、その後、船団は紀伊半島沿岸を航海し続けて紀伊水道へと向かい、御巡幸の密かな目的地である四国の剣山に向けて神宝を護衛しながら船旅を続けます。船木一族は最終的に淡路島を越えて播磨方面へと向かうことになります。その途中、各地で集落を築きながら、辰砂の鉱山を見出すことに努めたと考えられます。その結果、今日の多気町、伊勢国の丹生をはじめ、和歌山県の吉野川上流となる丹生都比売神社周辺の紀伊山地においても辰砂を含む鉱脈が開発されました。そして紀伊水道を渡った四国の那賀川上流にも辰砂の鉱脈があることが見わかり、徳島の若杉山においては最大級の辰砂鉱山が開拓され、掘削が行われたのです。

こうして海洋豪族の船木氏や辰砂の発掘に携わった丹生氏らは、船舶建造のために不可欠な資源であった辰砂を採掘できる場所を複数確保し、それら鉱山の周辺に集落を築きました。辰砂の採掘は海洋豪族によって仕切られたからこそ、それら鉱山の多くは海上交通の便が良い、紀伊半島や四国の大河川沿いに見出されたのです。

元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索
元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索

魏志倭人伝が証する邪馬台国と辰砂の存在

それから2世紀も経たないうちに、卑弥呼を女王とする邪馬台国が突如として歴史に台頭しました。邪馬台国について書かれた著名な中国史書、魏志倭人伝の中には、辰砂についての記述が複数含まれていることからしても、当時、中国では倭国における辰砂の存在が注目されていたことは明らかです。辰砂を原料とする真っ赤な「朱」は、古代の中国でも不老、不死、高貴さの象徴としてだけでなく、災厄を防ぐ色として神聖視されました。魏志倭人伝の「以朱丹塗其身體」という記述からは、「倭国では体に朱丹を塗っている」という史実を知ることができます。最も興味深いのは、「出真珠・青玉。其山有丹」であり、「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある」という意味です。「真珠」とは真朱、すなわち水銀朱、「丹」は辰砂を指します。これらの記述から、邪馬台国が統治する領域内には辰砂を有する鉱山が存在し、そこで大量の辰砂が掘削されていたことが想定されます。

水銀鉱床群分布図
水銀鉱床群分布図
邪馬台国の時代、辰砂が採掘された地域は、その比定地の近くであった可能性が高いと考えられます。よって2~3世紀、邪馬台国の時代における辰砂の生産地を特定することにより、邪馬台国の比定地を絞り込むことができるはずです。当時、日本列島における水銀鉱床群は地域が限られており、大きな規模のものは、紀伊半島の吉野川沿いを中心とする大和水銀鉱床群、四国の若杉山遺跡周辺と阿波水銀鉱床群、そして九州の一部にある水銀鉱床群などしか知られていません。中でも若杉山遺跡の坑道の規模は他とは比較できないほど大きいことがわかってきたことから、魏志倭人伝が言う「其山」、つまり辰砂が掘削される鉱山とは、若杉山を指している可能性が高いのです。

邪馬台国と若杉山遺跡は辰砂という特殊な資源に共通点があります。また、弥生時代後期の1~3世紀という時代にも一致します。それ故、若杉山遺跡からさほど遠くない場所に、邪馬台国が存在した可能性が高いと考えられます。邪馬台国は海岸から陸地を1か月ほどかけて歩かなければ到達できないほどの奥地にあると魏志倭人伝には記されています。よって、那賀川の上流の険しい四国の山脈のどこかに邪馬台国があったと推定するのが自然です。思いもよらず、若杉山遺跡の検証から、邪馬台国の比定地が絞りこめるだけでなく、歴史の流れがより明確になってくるようです。

若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
3世紀、女王卑弥呼が統治した邪馬台国の時代に辰砂が産出された可能性がある場所は、いまだ、この若杉山遺跡しか見つけられていません。今後も坑道内の調査が進められ、辰砂の発掘方法だけでなく、若杉山遺跡から発掘された遺物や辰砂の検証から、それらの時代背景が、さらに詳しく特定されることが期待されます。

若杉山のレイライン

高くそびえる石垣に圧倒される
高くそびえる石垣に圧倒される
水銀の原料となる辰砂は、いつの日も歴史の中で重要な役割を占めてきました。それだけ高価なものであり、様々な用途において、効力を発揮する資源だったのです。だからこそ、辰砂を探し求めていた古代の海洋豪族は、紀伊半島から四国の剣山に向かう途中、大きな河川を行き来しながら辰砂の鉱脈を探し求めたことでしょう。その結果、紀伊半島では吉野川の上流に、そして四国では若杉山が見出され、山の斜面から坑道が掘進され、辰砂が掘り当てられたのです。しかしながら、那賀川支流沿いで何の目印もなく、人気の全くない山奥にある若杉山遺跡の場所は、どうやって探し出されたのでしょうか。しかもその斜面は急であり、山の中腹に連なる岩場の一角にある遺跡の場所周辺には何ら目印さえ見当たりません。広大な四国の山岳、山々の中からいったいどのようにして若杉山の場所を特定し、どの岩場を選別して掘削することができたのでしょうか。レイラインの考察から、確かな根拠に基づいた答えを見出すことができます。

レイラインとは、霊峰と言われる山々や大きな岬、神社などの聖地が一直線上に並んでいる状態を言います。一直線上に結び付けられると、たとえ山奥に新しく神社を建立した場合でも、他の指標を参照しながらその位置が見つけやすいだけでなく、同一線上の拠点同士が地の力と利を共有するという意味合いを持つことになります。そして神社など新たな拠点を設立する際には、複数のレイラインが交差する場所であることが重要視されたのです。神を祀る聖地や都を造営する場所など、大切な場所を見知らぬ新天地にて探し出す場合、古代ではレイラインの交差という構想が積極的に活用されました。若杉山遺跡も例に漏れず、複数のレイラインが交差する地点に見出されたのです。

若杉山遺跡の年代は1~3世紀と特定されたことから、古代、元伊勢の御巡幸が終焉し、邪馬台国が台頭する時代に重なっていると考えられます。その時代背景を考えながら、レイラインの指標となる可能性の高い聖地や山を思い浮かべてみました。まず、多くのレイラインにおいて日本の最高峰である富士山が大切な指標となります。次に元伊勢御巡幸の基点でもあり、神が住まわれたとされる三輪山と、天照大神が祀られた伊勢神宮の存在が挙げられます。この2つの聖地も、レイラインの指標として多用されています。神宝と海洋豪族の歴史に纏わる神社としては、鹿島神宮も重要です。

また、神社の中でも1世紀という時代を振り返るならば、丹生都比売神社の存在を忘れることができません。元伊勢御巡幸が終わった直後の時代、その船旅を先導した船木氏らは紀伊半島の随所に一族の拠点を設けただけでなく、辰砂を求めて紀伊水道から吉野川を上り、その上流に辰砂の鉱山を見つけました。辰砂が発掘された場所は丹生とよばれ、その近郊には丹生都比売神社が建立されたのです。若杉山遺跡が辰砂の掘削場所であったことから、丹生都比売神社と歴史的な背景において、何らかの関係があっても不思議ではありません。

空海の最終拠点となった高野山も、辰砂の採掘に長けていた丹生氏の元拠点です。2匹の黒犬を連れた丹生明神の漁師が、高野山まで空海を導いたという伝説もあるとおり、空海は辰砂の産地を拠点とすることになります。船旅を繰り返し、唐にまで渡った空海だからこそ、中国にて辰砂と水銀の大切さを学んだだけでなく、船底に塗られた辰砂の重要性を身をもって体験したのではないでしょうか。こうして貴重な辰砂の埋蔵に着眼した空海は、その辰砂の掘削と活用をもって、高野山の発展にも貢献したと考えられます。

また、若杉山遺跡のそばを流れる那賀川の上流を辿ると、四国剣山の麓周辺へと繋がっています。剣山は元伊勢御巡幸が示唆する神宝の秘蔵地として、御巡幸地のレイラインすべてが交差する地点でもあることから、極めて重要な存在です。元伊勢御巡幸の最終段は、伊勢からの船旅により終わっています。伊勢から紀伊半島を南下した後、どこに向かったかは史書に明記されていません。しかしながら船団が神宝を護衛する立場にあったこと、その後、紀伊半島の吉野川上流や四国の那賀川沿いに辰砂の鉱山が発見されて掘削が行われたこと、そして那賀川の上流には剣山が聳え立ち、元伊勢御巡幸時代の直後から邪馬台国の歴史が息吹くことを考慮すると、元伊勢御巡幸の目的地が剣山であったという想定が現実味を帯びてきます。よって、剣山には元伊勢御巡幸で祀られた真の神宝が一時期秘蔵されていた可能性があると言えるでしょう。

三輪山
三輪山
これらの神社や霊峰を指標として結ぶレイラインの線上に若杉山遺跡が存在するか、見てみましょう。まず、弥生時代後期、神が住まわれる霊峰として最も重要視されていた三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方角、およそ240度の方向に線を引いてみました。すると若杉山遺跡に当たります。これは、若杉山遺跡から見れば、夏至の日に太陽が昇る方向に三輪山が存在することを意味しています。夏至の日の出となる方角はレイラインの構想において、極めて重要な位置付けを持っています。次に富士山の頂上と鹿島神宮を結ぶ線を紀伊半島まで延長してみました。すると丹生都比売神社を通ることがわかります。丹生都比売神社の建立地を特定する際、富士山と鹿島神宮の延長線上に、その聖地が見出された結果と考えられます。しかもそのレイラインを西方に延ばすと若杉山遺跡があるのです。つまり若杉山遺跡の場所は、辰砂を掘削する紀伊半島の丹生と、富士山、鹿島神宮の地の力と結び付いていただけでなく、そこから夏至の日が出る方角に三輪山を拝することができたのです。さらに、西日本最高峰の石鎚山と剣山を結ぶ線を東方に延長すると、若杉山遺跡に当たります。これは若杉山が剣山と関わりを持っていることを示唆しています。また、元伊勢御巡幸にも含まれた瀧原宮と伊勢神宮を結ぶ線は、山上ヶ岳と生石ヶ峰の頂上を通り、若杉山遺跡に至ります。

剣山頂上から望む伊島と紀伊水道
剣山頂上から望む伊島と紀伊水道
これらレイラインの考察から、富士山、剣山、石鎚山、そして三輪山という日本屈指の霊峰と、伊勢神宮、鹿島神宮などいくつもの著名な社が結び付けられたレイラインが交差する場所に若杉山遺跡が存在することがわかります。若杉山遺跡の地は、山奥の中を何の考えもなく探し求めた結果、辰砂が出てくる場所が見つかった訳ではありませんでした。その場所は、古代聖地と霊峰、そして辰砂の象徴となる丹生都比売神社に結び付けられる場所を綿密に計算したうえで、ピンポイントに特定された場所だったのです。

若杉山遺跡のレイライン
若杉山遺跡のレイライン

レイラインから見えてくる歴史の流れ

今一度、歴史の流れを振り返ってみましょう。1世紀の初頭は前述したとおり、元伊勢の御巡幸が終焉し、伊勢神宮が建立された時代です。元伊勢の御巡幸は意外にも、神宝を守るだけでなく、後世にその秘蔵場所が四国の剣山であることを示唆するべく、迷路のように御巡幸地を転々と渡り巡ることでした。レイラインの考察から、すべての元伊勢と言われる御巡幸地が、四国の剣山に結び付いていることがわかりました。(「日本のレイライン」、17-44章参照」)。一見信じがたい構想ですが、地図に線引きをして確認できるだけでなく、剣山に神宝が持ち運ばれたと想定することにより、歴史の辻褄が合います。

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

元伊勢の御巡幸後、船舶で御一行を先導した海洋豪族の船木氏らは、伊勢より剣山へ向けて船旅を続けます。その途中、紀伊半島の西岸から吉野川を上り、上流にて辰砂を掘削し、丹生都比売神社が建立されました。その後、紀伊水道を徳島の方に渡り、那賀川から剣山へ向かって川の上流へと向かう途中、若杉山の地点を見出し、そこで掘削を行ったと考えられます。その場所が、今日の若杉山遺跡です。辰砂は造船を手掛ける海洋豪族にとっては不可欠な資源であったことから、大きな河川を行き来しながら紀伊半島では丹生に、そして四国では若杉山にて辰砂の掘削が行われたと考えられます。

石上神社の巨石
石上神社の巨石
その後、神宝は剣山周辺に運ばれたと考えられる2つの理由があります。まず、その後の船木氏の動向を追ってみましょう。船木氏は徳島を離れた後、船で淡路島へと向かい、島の北方に上陸した後、今日の淡路市舟木まで山を登り、そこに巨石を移動して祀ったのです。船木氏が河川から遠く離れた場所に自らの拠点を設け、巨石を祀るからには、それなりの重大な理由があったと考えられます。その場所は、三輪山や斎宮、長谷寺と同緯度にあることから「太陽の道」とも称され、今日、巨石を御神体とする石上神社があります。しかも石上神社は、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ一直線上にあり、その延長線には摩耶山も並んでいたのです。石上神社の地が船木氏の拠点となり、その三輪山と剣山を結び付けるレイラインの交差点上にて巨石が祀られたことからして、元伊勢の御巡幸に続く神宝の旅が、剣山を最終地点として完結したものと考えられます。

もう一つの理由が、元伊勢の時代からおよそ2世紀後に突如として台頭する邪馬台国の存在です。女王卑弥呼が神懸った背景には、神宝の存在があるのではないでしょうか。神宝のある所に信心深い人々が集まり、そこで祈りを捧げるうちに、霊力を付けたと想定されます。剣山に神宝が秘蔵されたとするならば、その山奥で卑弥呼が祈り、霊力を養ったと考えて何ら不思議はありません。よって、中国史書は、陸地から30日も歩かなければ到達しない奥地に邪馬台国があったと記載されています。そのような秘境は剣山しか存在しないでしょう。若杉山遺跡から辰砂が採れたことも、中国史書の記述と合致します。その河川の上流には剣山の存在がありました。

若杉山遺跡のレイラインから、歴史の流れを見直す多くのヒントを見出すことができます。

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(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部