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天皇家の菊花紋
古代西アジアの王家紋章に酷似する菊花紋の背景を探る

16菊花紋
16菊花紋
菊花紋と言えば、誰もが手にするパスポートの表紙にも描かれている天皇家のシンボルであり、日本人にはとても馴染みの深い紋章です。菊花紋はその名のとおり、菊の花弁を図案化したものであり、パスポートの菊紋は16枚の花弁が一重に描かれていることから、「十六一重表菊」と呼ばれています。花弁の枚数や重ね方の違いから、菊花紋には複数の異なるデザインが存在し、それらの名称は、花弁の枚数と、それらが重なり合っているかどうかで決まります。パスポートの菊紋は花弁が重ならない「一重」のタイプです。それに対して、皇室の菊花紋は16枚の花弁が表を向いて重なっていることから、「十六八重表菊」と名付けられています。

皇室の代名詞とも言える菊花紋の根底にある菊の歴史は古く、仁徳天皇が即位された古墳時代にまで遡ります。その当時、大陸より伝来された菊には長寿を全うするための薬用効果があると伝えられていたようです。奈良時代では、菊は肌寒い晩秋でも鮮やかに咲くことから秋の季節を代表する花として認知され始めただけでなく、梅や竹、蘭とともに、草木の中の四君子の一つとされました。平安時代になると、「古今和歌集」や「源氏物語」の中で、菊が詠まれた詩歌が多く見られるようになり、歌を詠みながら菊の花を浮かべた酒を飲み交わすこともありました。また、「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、菊花紋は特に文様として流行し、宮中では年中行事として観菊の宴が始まりました。

鎌倉時代では後鳥羽上皇が菊の紋をことのほか愛されたことが知られています。上皇は衣服や刀剣など、様々な日常品にまで菊の紋を記し、自ら焼刃を入れた刀までに16弁の菊紋を彫ったという伝承もあります。こうして菊花紋は後鳥羽上皇の時代から、天皇家の紋章として公に取り入れられるようになったのです。その後、菊花紋は後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇などにより継承され、いつしか「十六八重表菊」が皇室の紋として徐々に認知されるようになります。また、菊水紋などの形状の異なる菊花紋も、楠木正成をはじめ公家や武将などにより使われるようになり、武家のシンボルとしては足利、織田、豊臣氏などが家紋として使用しました。また江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われています。

明治時代では、西郷隆盛が維新の功績が認められ、明治天皇より菊紋をいただいたことが伝えられています。その菊紋は「抱き菊の葉に菊」とも呼ばれ、明治天皇自らがデザインしたものです。「十六八重表菊」が正式に皇室の紋章とされたのは、1869年、明治2年の太政官布告によります。しかしながら町家の商標などにも濫用され始めたため、当初は禁令が出され、許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。明治22年には菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3対38に定義され、大正15年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16葉、その花弁は8重菊の複弁、弁のはしの弧は32と定められました。その後、規制は緩められ、今日では皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物 、宮殿の建築物、食器や礼服、および印紙やパスポートなどに幅広く利用されているだけでなく、多くの社寺などでも使用されています。

菊花紋はいつ、だれが創作したか?

菊花紋の起源は、前述したとおり鎌倉時代に後鳥羽上皇が十六菊紋を自らの紋章として愛用したことがその始まりと言われています。しかし、そのデザインは誰が考案したのでしょうか。一説によると、古墳時代、仁徳天皇に仕えていた貴族らが、当時、大陸より持ち込まれた菊の花の美しさに魅了され、いつしか菊紋が描かれるようになったとのことです。しかしながら、いかなる史書にも菊花紋のデザインについての言及が見当たりません。果たして古代、花に魅了されたが故に、菊花紋をわざわざデザインするようなことが考えられるでしょうか。そもそも古墳時代から奈良時代にかけて、家紋を必要とする文化的なニーズがあったのでしょうか。

それから何世紀も経った後の平安時代、後鳥羽上皇がその菊の紋を天皇家の紋として使い始めました。しかし、その菊花紋のデザインも、どこに由来するかは不明のままです。古墳時代から奈良時代にかけて用いられ始めた紋章のデザインやオブジェがどこかに残されており、それに後鳥羽上皇が目を留めたのでしょうか。それとも家紋を欲するあまり、後鳥羽上皇が自らデザインしたのでしょうか。または皇室をとりまく学者からの紹介があったのでしょうか。いずれにしても、16弁の菊花紋をデザインするのは容易くなく、それを創作したという史書の記録も存在せず、また、そこまでして家紋が必要となる理由が見当たりません。

様々な憶測が飛び交う中、皇室の表紋である菊花紋のデザインの成り立ちについては、日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして、菊花紋が創作されたという説があります。延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、その花弁が放射状に並ぶと日の光にも例えることができることから、それを家紋のデザインに取り入れたと推測するのです。しかしながら、これも憶測にしかすぎません。菊花紋のルーツをいくら調べても、日本国内の歴史を振り返るだけでは、答えに行き詰ってしまうようです。

古代西アジアに存在した菊花紋のデザイン

古代エジプトで作られた金製ロータスの皿
古代エジプトで作られた金製ロータスの皿
菊花紋に酷似するデザインは、古代、西アジアからエジプトにかけて各地で存在しました。平安時代よりもさらに昔に遡る紀元前30世紀前後、エジプトでは太陽の象徴とも考えられる金の皿が、王族の墓に納められていたことがわかりました。ロータスの皿とも呼ばれるこの美しい器には、菊花紋に酷似したデザインが用いられています。また、紀元前24世紀という遠い昔のシュメール王朝では、その王家を象徴する家紋として十六芒星が使われたようです。シュメールは今日の中近東、イランの周辺に存在した国家です。例えば紀元前2300年ごろ、シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には、菊の紋章に近い十六芒星のデザインが描かれています。このデザインは、中心の円形から二等辺三角形の尖った形状が8方向に放射して八芒星となり、それが八重に重なり十六芒星となっています。菊花紋のように周辺が円状の花弁ではなく尖っているため、見た目は菊花紋に見えませんが、16弁をもつことから関連性はあるかもしれません。

紀元前23世紀アッカド王朝ナラム・シンの戦勝記念碑 ヘロデ門 16弁の紋章
紀元前23世紀アッカド王朝
ナラム・シンの戦勝記念碑
ヘロデ門 16弁の紋章
イスラエルの首都エルサレムの中心にあるエルサレム神殿の城壁、ヘロデ門の上部にも、菊花紋に似たデザインが刻まれています。紀元前11世紀にダビデ王がイスラエルの王として君臨した際に、エルサレムの城壁は建造され、ダビデ王の子であるソロモン王がエルサレム神殿を城壁内に建造し、平安の都が完成しました。その後、長い歴史の中でイスラエル国家は崩壊し、幾度となくエルサレムの城壁は破壊されます。今日、建てられている城壁は、新門を除いては15~6世紀前後に再建されたものが多く、中にはもっと古くに再建された黄金門もあります。ヘロデ門の再建時期は明確ではありませんが、その門にある紋章は古代より存在したからこそ、再建された際には再び、同じ場所に彫られたと考えられます。ヘロデ門の紋章は、中心の円形部分が大きいことが、菊花紋との大きな違いです。

バビロンでネブカドネザルが建設したイシュタル門の壁画
バビロンでネブカドネザルが建設した
イシュタル門の壁画
シュメール王朝が存在した今日のイラクにあるバビロン遺跡では、紀元前575年にネブカドネザル王の命によって建造されたイシュタル門が残されています。そこにも菊花紋に類似した紋章が、王家の紋章として描かれています。実際、イスラエルの歴史を辿ると、イスラエル民族の族長の父と言われるアブラハムは元来シュメールの出身でした。そのシュメール文化圏内において、バビロン王国が台頭したのです。そして前6世紀、バビロンによって滅ぼされたイスラエルの民は、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれます。時を経て、優秀なイスラエル人はバビロン王国にて地位が格上げされ、国家に貢献したことが歴史に残されています。それ故、エルサレム神殿のヘロデ門と同じ紋章がバビロン遺跡のイシュタル門に残されていても、何ら不思議はありません。シュメールとイスラエル、バビロンは、イスラエルの民族史の中でも時代こそ違え、イスラエルの民が育まれた大切な場所であり、古くから根付いた文化は世代を超えて踏襲されてきたことでしょう。その結果、菊花紋のデザインが古代より西アジアでは使われ続けてきたと考えられます。

古代文明において、紋章は自然界に住む神々と人間との関係を象徴するものであり、神聖文字を図案化したとも考えられます。それ故、菊花紋に類似したデザインは、当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、次第に菊のような形状に整えられていったのではないでしょうか。そして16弁のデザインは古代、シュメールにおいて王家の紋として普及しただけでなく、その後、イスラエルやバビロンなど中近東の地域において、王家の紋章として用いられたのです。

西アジア文化に由来する菊花紋の真相

もしかすると、歌を詠まれることに没頭した後鳥羽上皇は、古代の様々な文献に目を通している際に、この菊花紋のデザインが描かれている記録を見つけ、それが西アジアでは王家のシンボルであることを知り、そのデザインをこよなく愛したのかもしれません。いずれにしても、菊花紋のデザインは古代、シュメールをはじめ、中近東の地域で使われていた王家の紋章に酷似していることから、菊花紋は日本国内における創作の産物ではなく、海外に由来した可能性が高いようです。

紀元前2000年ごろに歴史から消え去ったシュメールにルーツを持つイスラエルの末裔が、前7世紀に国家を失った後、日本に渡来して皇族の歴史が始まったと仮定するならば、後鳥羽上皇をはじめとし、多くの天皇が、その家紋を大切にしてきた理由が見えてきます。また、平安時代、それら西アジア文化の影響を多大に受け、ネストリウス派キリスト教など西アジアの宗教が広まっていた中国の西安にて学んだ空海も、様々な文献を研究する最中、菊紋章の存在に目を留めたかもしれません。そして空海は帰国後、仮名文字の普及とともに「いろは歌」を創作した際、その折句に含めたイエスキリストのメッセージとともに、西アジア王朝の象徴でもある菊花紋も文様として広めたとも考えられます。皇族と近い関係にあった空海だけに、平安初期の桓武天皇をはじめ、後鳥羽上皇の時代に至るまでの天皇も、空海が中国大陸から持ち帰った菊花紋のデザインに触れる機会があった可能性があるのではないでしょうか。

シュメールとイスラエル、そして日本の皇室が菊花紋を共有している事実は単なる偶然ではなく、古代日本の歴史を刻んだ大和の民のルーツが、イスラエル、さらにはシュメール文化に由来していたからと考えられます。紀元前722年、北イスラエル王国の10部族は国家を失い、離散した民の行方はわからなくなりました。直後、イスラエルのエルサレム神殿がある南ユダ王国の滅亡も預言者によって再三指摘され、預言者イザヤに導かれた南ユダ王国の王族と祭祀らは、神の契約の箱とともに、密かに国家を脱出したと考えられます。ダビデの子孫による王国は、神が約束されたとおり永遠に続くと固く信じたイザヤ一行は、聖櫃とも言われる契約の箱を護衛しながら、預言によって示された「東の島々」を求めて旅立ち、アジア大陸の沿岸を船で東方へと移動しました。そして最終的に大陸より南西諸島へと渡り、琉球を経由して日本に到達したのです。

北イスラエル王国が滅びてからおよそ60年後の紀元前660年、南ユダ王国が崩壊の危機に直面している最中、時を同じくして広大なアジア大陸の東の果てに浮かぶ日の出ずる島々では、倭国の歴史が幕を開けます。国生みの神々は、高天原を経由して日本列島に降臨したと日本書紀や古事記は伝えています。もしその主人公がイスラエルから渡来したイザヤ一行であったとするならば、菊花紋のルーツも理解しやすくなります。イスラエルと日本の文化には多くの共通点が見受けられますが、それが単なる偶然とは言えない根拠の原点が、この暦の接点にあります。北イスラエル民族が歴史から消え去り、南ユダ王国の崩壊が始まった直後、遠い東の新天地で倭国の歴史が始まった事実を見逃すことはできません。

イザヤ一行が日本建国の主導者であったことは、単に時代の一致だけではなく、史書の記述からも理解できます。国生みの先陣をきって列島を探索し、島々を見出したのが伊耶那岐神です。日本書紀には、伊耶那岐神の父の名前は「面足命」と記されています。「面」は訓読みで「オモ」、「足」は中国語で「ツ」または「ジュ」と発音することから、「オモツ」「アモツ」と読むことができます。旧約聖書でも預言者イザヤは、「アモツの子、イザヤ」と書かれています。つまり、イスラエルのイザヤと伊弉諾命は同一人物であることを、史書から知ることができます。その前提で古代史を振り返ると、菊花紋のルーツが古代の西アジアにあるだけでなく、日本の古代史に纏わる多くの謎を解明することができます。

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(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部