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イスラエルにも「三種の神器」が存在するか?
日本の皇室が大切に秘蔵してきた神宝との類似点を検証!

イスラエルの荒野から死海を望む
イスラエルの荒野から死海を望む
1981年、「レイダース 失われた《聖櫃》(アーク)」という映画が世界的に大ヒットしました。この映画は、シナイ山頂で神がモーセに語った十戒を神ご自身が書き記した石の板が収蔵されている「契約の箱」の行方を探し求めるアドベンチャー物語です。聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」は紀元前7世紀ごろ、北イスラエル王国と南ユダ王国の崩壊とともに姿を消し、未だに発見されていません。歴史の謎に包まれた聖櫃であるだけに、その秘蔵場所を見出すために、これまで多くの人々が世界中を探索し、数多の物議を醸してきました。それほどまでに聖櫃と神宝は、イスラエルの歴史において注視され続け、特にユダヤ教やキリスト教の信者にとっては重要な意味を持っていました。

イスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態を脱出した後、神が導かれるままに、生ける神の栄光を間近に目にしながら荒野を渡り歩き、約束されたカナンの地へと向かったことから、当時、神宝というものを必要としませんでした。その40年にわたる旅の途中、聖櫃とも呼ばれる契約の箱が造られ、幕屋と呼ばれるテントの様相をした聖なる場所の中心となる至聖所に置かれました。契約の箱の中にはモーセが携えてきた2枚の石板が納められ、箱のそばには神の命に従って、アロンの杖とマナのつぼが置かれたのです。こうしてイスラエルの民は、神の臨在を象徴する契約の箱とともに、荒野を移動し続けたのです。

神がモーセに与えた2枚の石板
神がモーセに与えた2枚の石板
モーセ自身が神と直接語り合えるという不思議な関係の中に民が導かれていただけに、何かの宝物や物質が神聖化されるという必要がなかったのです。しかも神は律法を通して、人間の手で作った像を拝むことを厳しく禁じていました。よって、イスラエルの民は古くから、神を心で信じて従うことを教わり、人の手で作ったものを神聖化することは、ことごとく排除されました。それ故、旧約聖書を読んでも、出エジプト記からイスラエル神殿がソロモンによって建てられるまで、神に捧げた金銀の器に関する記述はあるものの、神宝を拝するという神の教えはどこにも見当たりません。しかしながらイスラエルの人々は神の教えから頻繁に離れてしまい、自らの手で作り上げた神宝や神々を拝んだことにより、神の怒りをかうことになりました。

礼拝する対象ではないものの、歴史を証するための聖なる物として大切に扱うことを神ご自身がモーセに命じた事例は、旧約聖書に少なくとも3件記載されています。それらはすべて神の奇跡的な介入を伴うことから、一般の人が見ることも触ることもできないものばかりです。よって、古くから聖なる神宝とみなされていたに違いなく、イスラエルの歴史の中でも重要な位置づけを占めていました。それらはアロンの杖とマナのつぼ、そして神ご自身が刻み記したと言われる2枚の石の板です。

神の奇跡を成し遂げるアロンの杖

アロンの杖は、モーセがエジプト王のパロに対し、イスラエルの民を国外に去らせるようにとお願いした際に、奇跡をおこして神の力を証すために使ったものです。既にモーセはシナイ山にて、杖を地に投げると、それが蛇に変わることを神から教わっていました。パロと対面した際でも、アロンに託された杖が投げられ、それは蛇になりました。また、その杖をもって、モーセがアロンに対し、「手を川の上、流れの上、池の上にさし伸べ、かえるをエジプトの地にのぼらせよ」と命じて杖がさし伸べられと、エジプト全土の大勢の民と家畜にぶよの害が及んだのです。

アロンの杖全体から芽と葉が出るイメージ
芽と葉が出るイメージ
旧約聖書の民数記17章には、その後、イスラエル12部族それぞれが杖を取り、部族の名前が杖に書かれたことが記されています。するとレビ族であるアロンの杖のみが翌日、「芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた」のです。そして神はモーセに対し、「アロンの杖を、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存しなさい」と命じられました。こうして芽をふいたアロンの杖は、あかしの箱とも言われる契約の箱とともに保存されることになりました。神の奇跡を証するためのシンボルであるアロンの杖が契約の箱に保存されることになったのは、神を信じない民が罰を受けて死なないようにするため、後世への「しるし」となるためでした。こうしてアロンの杖は、イスラエルが誇る大切な神宝として、契約の箱とともに大切に保存されることとなったのです。

過越祭で読まれるハッガーダーと呼ばれる祈りや詩篇からなる冊子に記載されているイスラエルの伝承と、聖書解釈の権威でもあるミドラーシュに基づけば、ヤコブの杖とユダがタマルに与えた杖は同一であり、なおかつ、それがモーセの杖、アロンの杖になったとのことです。その後、杖はダビデに引き継がれ、ゴリアテと呼ばれた巨人を斬る際にも使われたと言われています。そしてダビデ王の時代以降も、杖は王権を象徴する王笏として、代々の王によって用いられたとも記載されています。しかしながらダビデ王の子であるソロモン王の時代では既に、アロンの杖の行方はわからなくなっていたのです。諸外国からの攻撃を受け始めた際に、どこかに持ち去られてしまったのでしょうか。

キリスト教系の伝説においても、アロンの杖についてはユダヤ教に類似した言い伝えが残されています。13世紀にシリアのネストリウス派、ソロモンにより編纂された書簡には、「アロンの杖」の起源がエデンの園にある「善悪の木」にまで遡り、それから族長時代にアブラハムからヤコブ、イサクを経て、ユダに引き継がれたと記されています。その後、天使がモアブの山中に杖を埋め、エテロがその事実を知り、モーセが探しに行った際に再び天使が表れて、杖をモーセに渡しました。モーセはその杖を用いてアロンとともに多くの奇跡を体験しました。その後、アロンの杖はヨシュアが戦争に出陣する際に重宝されますが、いつの日か祭司によってエルサレムのどこかに埋められてしまいます。そしてアロンの杖はイエスキリストの時代まで隠されることになったというのです。

アロンの杖全体から芽と葉が出るイメージ
アロンの杖全体から芽と葉が出るイメージ
アロンの杖の長さや形状も定かではありません。杖として持ち歩いたり、戦いの際に用い、または岩をたたいたり、そこら芽がふいたりするということを想定すると、1m前後の長さはあったのではないかと想定されます。その形は1本のまっすぐな杖か、それとも上部分が大きく弧を描いて丸くなっているかはわかりません。また、芽がふいたという奇跡の杖の様相も明確ではありません。杖の上から芽と葉が多く吹き出たのか、それとも杖全体から芽が出てそこから葉が成長したのか、どちらとも言えないのです。

アロンの杖は、イスラエルの歴史の流れの中で、いつの間にか行方がわからなくなりました。おそらく時期を同じくして、マナのつぼも紛失しています。イスラエルの神宝として、契約の箱とともに大切に保存されていた杖とつぼだけに、簡単になくなるはずがありません。果たして、アロンの杖とマナのつぼは今日、どこに秘蔵されているのでしょうか。神の権威と力の象徴である神宝であるだけに、この世から簡単に消え去ることはないはずです。

マナのつぼが神宝となった所以

エジプトを脱出した後、イスラエルの民は荒野を40年間、徒歩で旅しながら、神が約束されたカナンの土地に向かいました。その際、空腹を覚えた民に対し、天から与えられた食物が、マナと呼ばれるパンのような食べ物です。イスラエルの民は約束の地にたどり着くまで、そのマナを食べ続けて、生きながらえることができたのです。

アロンの杖の時と同様に、神はマナについても、後世の民のために証として残しておくことを教えられました。神はモーセに対し、「子孫のためにたくわえておきなさい」と命じ、人々がエジプトから導き出された際に、神が奇跡的に与えたパンを証のために見せることができるようにしたのです。神の命に従ってモーセはアロンに対し、一つのつぼをとり、マナをその中に入れて子孫のために蓄えることを指示しました。アロンは言われた通り、つぼの中にマナを入れて「あかしの箱の前においてたくわえた」と、出エジプト記16章に記録されています。神ご自身が命じたことによって保存されたマナのつぼは、こうして契約の箱とともに備えられ、神聖なものとされたのです。

マナのつぼ
マナのつぼ
マナのつぼの形や大きさなどは知られていません。ただわかっていることは、契約の箱の前に置かれたマナのツボは金色であったということです。食べ物であるマナを保管し、後世の民にとっての証とするわけですから、そのつぼは小さいものではなく、ごく普通のつぼと同じ程度の大きさではなかったでしょうか。

あかしの箱、すなわち契約の箱は聖なる至聖所に置かれていることから、立ち入ることが厳しく制限され、神の祭司しか出入りできません。それ故、神から与えられたマナが契約の箱の前に置かれている、という事実が大事であり、祭司らはそれを証することにより、後世の民を励ましたのです。旧約聖書に書かれている話は単なる物語ではなく、実際におきた出来事をつぶさに記録したものであることから、マナのつぼは実存したと考えられます。

神との契約が書かれた石の2枚板

十戒が刻まれた2枚の石板のイメージ
十戒が刻まれた2枚の石板のイメージ
アロンの杖、マナのつぼが、契約の箱に保存される前から、その中に納められていた神宝が2枚の石板であり、イスラエル神宝の中では、最も大切にされていた宝と言えるでしょう。シナイ山に上ったモーセは、神の命に従って、2枚の石板を携えていました。その石板に、神ご自身が掟の言葉を書き記したのです。初めて書かれた石板は、イスラエルの民が罪を犯したことに怒ったモーセが投げ砕いてしまいました。そして2度目のチャンスが神から与えられ、再び、2枚の石板に神が書き記してくださったのです。

その際、神はモーセに木の箱を作ることも命じ、「おまえはそれをその箱におさめなければならない」(申命記10章2節)と語られました。その言葉に従い、モーセはアカシヤ材の箱をひとつ作り、石の板を保存する準備をしました。その後、モーセは神が命じるままに「あかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携えいれ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した」のです(出エジプト40章20-21節)。

ダビデ王のあと、ソロモン王が即位した際に、そのあかしの箱、聖櫃がダビデの町シオンからエルサレム神殿までかつぎ上げられることになりました。その際、主の箱とともに、「すべての聖なる器」も一緒にかつぎ上げられたことが列王記8章に記されています。そして宮の本殿となる至聖所に主の箱は置かれました。その際、「箱の内には2つの石の板のほか何もなかった」ことが聖書に記されています。主の宮には多くの金銀からなる捧げ物が宝蔵されますが、ソロモンの時代、既にあかしの箱の中に残されていたものは、モーセが収納した2枚の石板しかなかったことがわかります。そして北イスラエル王国が崩壊した前722年からしばらくして、南ユダ王国も滅亡の危機に直面していた頃、あかしの箱と2枚の石板も、どこかに持ち運ばれてしまったのです。

イスラエルにも三種の神器が存在するか?

ダビデ王が自らの余命がないことを悟り、イスラエル神殿の建造を子のソロモンに託した際、イスラエルのすべてのつかさ達が招集され、ソロモンを助けるように命じられました。そして共に神の宮を建て、「その家に主の契約の箱と神の聖なるもろもろの器を携え入れなさい」(歴上22章)とダビデは皆に命じました。この言葉からして、イスラエルの民にとって聖なるものは、聖櫃なる契約の箱と、神の宮に納められる聖なる器であったと想定されます。しかしながら聖書の記述の中には、マナのつぼ以外に神から保存を指示された聖なる器に関する記述はありません。よって、ダビデ王が命じられた主旨は、王自らが神に捧げた様々な金銀の器のことを指していると考えられます(歴下5章)。

では、イスラエルには「三種の神器」は存在しなかったのでしょうか。イスラエル人の間では、そのような言葉自体が今日でもあまり知れ渡っていないようです。後述するとおり、アロンの杖とマナのつぼはいつの間にか歴史の中に消え去っており、聖書や他の史書のどこにも、それらの行方についての記述が見られません。また、聖櫃なる契約の箱も、その中に収納されているはずの2枚の石の板とともに、北イスラエル王国が崩壊して間もなく消え去ってしまうのです。それ故、無くなってしまった神宝について語り続けることもできないことから、いつしか神器そのものへの思いが、歴史の流れの中に埋もれてしまったのかもしれません。

「三種の神器」という言葉自体は普及してなくとも、イスラエルの神宝、または契約の箱に備えられた宝ものを語る際には、必ずと言っていいほど3種の特殊な神宝の存在が認められていました。その共通点はいずれも、神からの直接の命と奇跡によって定められた神宝であることです。まず、モーセが携えてきた2枚の石板には神ご自身が十戒の文字を刻まれたことから、最も大切な宝物として秘蔵されることとなりました。次に、アロンの杖とは、12部族の杖の中から神ご自身がレビ族の杖を選び、一夜で花を咲かせるという奇跡を成し遂げたものです。よって、契約の箱の前に捧げられ、人々への証となったのです。最後に、マナのつぼには、神が天から与えた奇跡の食べものであるマナが納められ、これも後世への証のために秘蔵されることになりました。

これら3種の聖なるものはすべて、神ご自身が命じた結果、契約の箱とともに保存されことになりました。それ故、イスラエルの神宝を語る際は、今日でも2枚の石板とアロンの杖、そしてマナのつぼ、3つの神宝が一緒に描かれたり、語られたりすることが少なくありません。その証として新約聖書のへブル書には、契約の箱には「マナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とがいれてあり、」と書かれています。そこには「三種の神器」という言葉は使われていませんが、聖なるイスラエルの神器が3種存在したことがわかります。

これらを総合して考えると、少なくともイスラエルには、神が奇跡をもって用いられた3種の不思議な神宝が存在すると考えて間違いないようです。いずれも人知では計り知ることのできない超自然的な力の働きによって成し遂げられた奇跡の結果といえるでしょう。

契約の箱と消え去った神宝

日和佐秋祭り 神輿
日和佐秋祭り 神輿
聖櫃、あかしの箱とも呼ばれる契約の箱は、イスラエルの民が荒野を旅し、聖地エルサレムに辿り着くまでは、テントのように簡単に移動できる幕屋の中に置かれていました。契約の箱の側面には金属のリングが設けられ、移動する際にはこのリングに2本の長い木の棒を通して運ばれました。契約の箱が2本の木の棒によって担がれる外観は、ちょうど日本の祭りで用いられている御神輿に大変よく似ています。神の王座の象徴である契約の箱の中には、十戒の言葉が神によって彫られた2枚の石板が収納され、そこにはアロンの杖と金で鋳造されたマナのつぼも置かれたのです。そして聖櫃のそばにはモーセ五書も常に置かれ、仮庵祭ではその巻物が朗読されました。

エルサレム神殿がダビデ王の子、ソロモン王によって建造された後、契約の箱はその「至聖所」と呼ばれる大祭司しか入ることの許されない最も神聖な場所に奉安されました。しかしながら、エルサレム神殿の至聖所に契約の箱を安置した時、既にアロンの杖とマナのつぼは紛失していたのです。歴代誌下5章に、「箱の中には石の板二枚のほか、何もなかった。」と記載されているとおりです。アロンの杖とマナのつぼは、歴史の中に埋もれてしまい、消えてしまったのでしょうか。おそらくダビデ王が亡くなられる前後から、ソロモン王がエルサレム神殿を建造するまでの間に失われたと想定されます。

エルサレム 嘆きの壁
エルサレム 嘆きの壁
ソロモンの時代以降、イスラエルの国家は分裂して北イスラエル王国と南ユダ王国の2国家となり、国力が衰えた結果、諸外国に脅かされるようになります。ソロモンの子であるレハベアムの時代では、すぐさまエジプトから攻め入られ、聖書には「神殿の宝物と王の家の宝物がことごとく奪い去られた」と記されています(歴下12章)。南ユダ王国、アサ王の時代では、王自ら神殿の宝蔵と王の宮殿に残っている金銀をことごとくスリヤ王に献上したことが記録に残っています。こうして神殿からは次々と金や銀、その他の神に捧げられたものが消え去ってしまいました。そしていつしか神殿の中は荒れ果ててしまい、祭司が足を踏み入れることもなくなったような状況下が長年続きました。その途中、ヒゼキヤ王のように宗教改革を手掛け、信仰の機運を取り戻した時期もありましたが、長くは続きませんでした。最終的にバビロン帝国によって攻め入られ、神殿に保管されていた貨財や器の多くは没収された後、神殿は焼かれ、城壁は崩され、国家が滅びてしまったのです。

この一連の歴史の流れの中で、いつしか契約の箱は歴史から姿を消してしまいました。無論、遠い昔にはすでに、アロンの杖とマナのつぼも紛失しています。これらの大切なイスラエルの神宝は、いずこにあるのでしょうか。それとも破壊して捨てられてしまったのでしょうか。天地万物を造られた万軍の主の証である契約の箱だけに、壊されたり焼かれたりするとは到底考えられず、その神威ゆえに、地球上のどこかに今でも存在すると推測されます。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部