日本シティジャーナルロゴ

ヨットで食べる

ヨット

素朴な食生活の心得

学生ヨット部の生活はその大半を合宿生活の中で活動していました。合宿といっても普通では誰も住まないようなところで行います。ちなみに私の場合は、葉山の幽霊が出てきそうな一軒屋、富浦の民宿の倉庫2階でした。いずれにしても食事は自炊。1年生が交替でその日の練習は一切行わず部員全員の食事を3食作ります。材料は部費から出ますが何せ貧乏所帯のため予算は1日一人120円。今から20年前、セブンスターが150円、安いラーメン屋でも250円はしていたかと記憶しています。米、味噌、朝の卵1個、おしんこ、調味料は必要経費として別枠でしたが、朝の味噌汁の具、昼のおかず、夜のおかずを10人のときは1200円、30人だと3600円でやりくりしなければいけないため頭を悩ませます。メニューとしては朝の味噌汁の具は“おふ”+生卵1個、昼は野菜どんぶり+味噌汁、夜はカレー、シチュー、野菜テンプラ等が代表的です。お米は当然一番安い等級、肉、魚のたぐいはOBの差し入れでもない限りはお目にかかれません。そんな質素なメニューでも合宿中朝8時から夕方5時まで海上で練習し腹をすかせた人間にとっては問題ではありません。ベニヤ板に足をつけた手作りの食卓を並べ、全員集合したところで主将の“いただきます”の掛け声とともに平均3分で食事は終わり、残ったご飯を目指してお釜に突撃します。このときばかりは上級生、下級生の関係なく早い者勝ちです。

こんな食生活を送っている中一番うれしいのは八百屋や肉屋のおばさんおじさんのサービスです。我々のあまりのみすぼらしさに同情し、売り物にはちょっと難があるけれど捨てるにはまだ早いと思われるものを気前よく“持っていきな”とプレゼントしてくれます。当然ありがたく頂戴します。尤もこういったサービスを受けて得意顔で報告してくる部員は肝心のヨットの成績は今ひとつ、合宿打ち上げの宴会に全精力を傾けるタイプの人ばかりです。

ヨットといえば海の幸に恵まれ、毎日新鮮な魚を食べ放題と思われている方、考えを改めてください。私も4年間の学生生活の中で合宿中に海の幸に恵まれたのはたった1回でした。場所は内房の富浦。8月の暑い盛り、いつものように練習を終え上級生は合宿所に戻りシャワー、下級生は浜でヨットの後片付けという日本の体育会運動部の昔からのしきたり通り一日の終わりを迎えようとしていました。そこに“バケツバケツ”と大声をあげ走ってくる下級生。何事かと問いただすと“魚 魚 魚がいっぱい!!”と一人興奮して騒ぐのみ。“何だ、どうした”と聞いても“早く早く”と言い残してバケツとともに浜へ戻って行く。後からぞろぞろ浜へ行って見ると地元の子供、おばさん、おじさん、おばあさん、おじいさん、どこから出てきたかと思うほどの人だかりができています。何事かと人をかきわけ波打ち際に行ってびっくり。海の中は小さな鰯の群れで銀色に輝いています。テレビでよく見る、底引き網に魚が詰まった状態が自然の海岸の片隅に突然現れています。何はともあれ全員手近にある、おわん、靴、ビニール袋を利用して天然の金魚すくい、ではなく鰯すくいを開始しました。数分ほどで群れは沖合いへいなくなり、後に残った残骸を拾いながら今とったばかりの鰯を指で割き、海水で洗って食べるとおいしいおいしい。醤油、わさびがなくてもそのままでも十分です。ひとしきり刺身を堪能し、残りは晩飯のフライにします。おいしい刺身のままではなくフライにする訳は、当時は部員数も多く刺身ではとても満足できる量ではないので、単に量を増やすだけの目的でした。それでも久々に皆満足できる食事にありつけ幸せな一日は終わりました。翌日の練習にはどこから調達してきたのか網(虫取り網だったみたいですが)を積み込み、練習よりもおかずを探すのに一生懸命だった者もおりました。但し、こんなことは後にも先にも1回限り。地元の人に聞いてもめったにないことだそうで2度とお目にかかることはありませんでした。

日本も戦時中は食べ物がなく何でも食べなければ生きていけない時代がありましたが、こんな合宿生活を経験すると身にしみて食べ物のありがたさを感じさせられます。今は食べ物に不自由しない世の中にはなっていますが、ファミリーレストランで子供が食べきれないほど頼んで平気で残していく若い家族、飲み屋で酔った勢いで頼みすぎたおつまみの数々、そんな状態を見ているとこのままでいいのか心配になってきます。頼んだものは残さず食べる。釣った魚は残さず食べる。どうしても食べきれないものは残り物として次の日食べる。ちょっと腐りかけてあぶなそうなら犬の餌にする。そんなあたりまえのことを、恥ずかしがらずにできる事がかっこいいと思うようになってほしいものです。

(文:高坂昌信)

© 日本シティジャーナル編集部