古代史の散策を楽しむ Part.I
平安京の謎を紐解く空海の存在とカゴメ印の不思議に迫る

(「日本とユダヤのハーモニー 古代史の謎に迫る 第6章より続く)

2002年に行われた日韓共催サッカー“ワールドカップ”を機に、天皇陛下が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言して話題になりました。それまで、皇室が公の場で、日本が朝鮮百済と密接な関係にあったことに言及することはタブー視されてきたこともあり、画期的な出来事でした。事実、桓武天皇の母、高野新笠の祖先は百済の出身であり、しかも桓武朝では多くの渡来人が活躍したことが知られています。

このような歴史的背景を少しでも理解することにより、歴史の探索が楽しくなるだけでなく、古代史の真相に迫ることもできるのです。

それにしても今日、多くの若者は歴史に対して苦手意識を抱いているようです。読書を敬遠し、お笑い番組ばかりテレビで見ている若者にとって、歴史のイメージは「つまらない」ようであり、特に学校では年号や史実を丸暗記する苦行を繰り返すだけの勉強法がまかり通っているため、敬遠されても仕方ありません。実は筆者も以前は同じ理由により歴史の勉強が大嫌いでしたが、ふとしたきっかけで歴史本を読むようになり、今では、人生をやり直すチャンスが与えられるなら、学生時代にもっと歴史を勉強したいと考えています。そして社会人として成功するために一番役に立つ学問は、一に国語、二に歴史、三に哲学であると確信するまでに至りました。

古代史の謎を解く鍵を握る空海 !

日本史を学んだ中において、最も興味深いトピックの一つが、古代史における日本とイスラエル民族との関係です。その原点は、紀元前8世紀にイスラエル王国が滅びたことにあります。

その後、一部のイスラエル民族はユーラシア大陸を横断して日本列島に辿り着き、四国の剣山周辺にも集落を作り、そこにイスラエルの神宝を埋蔵した可能性があることをこれまで指摘してきました。それから長い年月を経て、近畿地方に大和朝廷が興り、大陸との交流が活発になるにつれて仏教思想が広まり、漢字の普及と共に大陸文化の影響を多大に受けることになります。飛鳥・奈良時代は、正に新しい時代の幕開けであり、土着の島国文化と古代イスラエルの文化が融合した日本古来の文化に、新しい大陸文化の波がブレンドされた文明開化の時代でもありました。

そしてシルクロードの終着地である奈良の盆地がメルティング・ポットとして、文化交流の場となったのです。

多くの異なる文化的要素が入り混じる時代だけに、古代史の解釈は謎に包まれていることが少なくありません。実際問題として、天皇陛下の「ゆかり」発言の背景となった桓武天皇の時代も渡来人との関わりが多く、謎が渦巻くミステリーの宝庫です。特に天皇家のユダヤルーツが長年、囁かれ、日本文化の至る所にその影響としか考えられない風習が散見されることを考慮すれば、謎を解く鍵がイスラエルとの関係にあってもおかしくありませんが、その検証は決して容易ではありません。

そこで、空海という偉大な人物像に注目し、古代史をこれまでとは違った観点から見つめ直すことにしてみました。四国で生まれ育った空海は、地元に伝承されている言い伝えやヘブライルーツとみられる言葉の存在から、イスラエル民族が大陸を横断して日本に移住し、剣山周辺に集落を形成したことに気付いたのでしょう。その事実を目の当たりにして感動を覚えた空海は、イスラエルの文化が息吹く祖国にて、大切な信仰心の教えを庶民にわかり易いように伝える為、聖書の教理を参考にしながら密教としてまとめあげたのです。そしてヘブライ語の信仰告白を、同等の発音を持つ日本語文に置換えて暗号文化したり、イスラエルの神宝を隠蔽するために「カゴメ印」の地図を考案するなど、独創性に富んだ巧みな手腕をもって、神国としてのステータスを維持しようとしたのです。早速、空海が活躍した平安時代の初期に注目し、歴史を遡りながら古代史の謎を紐解いていきましょう。

平安京の場所を見つけたのは空海?

8世紀の後半の奈良時代、桓武天皇が即位し、多くの渡来系民族と既成仏教勢力が国政に入り乱れる最中、天災や疫病、要人の暗殺が続き都は大混乱に陥りました。その結果、平城京から長岡京、そして平安京へと短期間に遷都が繰り返された経緯は前述した通りです。遷都するたびに都が北上しただけでなく、最終的に長岡京から10数キロしか離れていない平安京にわざわざ遷都したのは、よほど重大な理由があったに違いありません。

平安京の場所は、桓武天皇がご覧になった際、「此の国、山河襟帯、自然に城を作(な)す。この形勝により因て新号を制すべし。よろしく山背国を改めて山城国となすべし。また子来の民(主君の元に喜び集まる民)、謳歌の輩、異句同辞し、号して平安京といふ」と、感動して語られた程、優れた立地でした。このお言葉は、奈良時代に土木事業の長官を勤め、近畿地方の整備に貢献した和気清麻呂が、桓武天皇を現在の東山高台にお誘いし、そこから見下ろせる盆地を進言した際に語られたと言われています。和気清麻呂は、その後、平安京を造営する責任者となったことから、この話には信憑性があります。

しかし、その盆地の存在を最初に和気清麻呂に指摘した人物は、793年に悟りを開いた空海ではないでしょうか。都が直面している諸問題を解決するために、空海は聖地の地理的関係を幾何学的に検証し、都の新天地をピンポイントで見出したのです。そのツールとして考案したのが、近畿地方を覆う「ダビデの星」とも呼ばれる二つの三角形を重ねた「カゴメ印」です。

まず伊勢神宮を頂点として平安京と高野山を結ぶ三角形を基本とします。それに重なる逆三角形は、再度山を頂点として便石山と国分寺(亀山)を結び、いずれも空海と大変深い係わりのある聖地です。また、伊勢神宮と高野山を結ぶ直線上には剣山が存在することから、カゴメ印と剣山が意図的に繋がっていることも理解できます。そして驚くことに、伊勢神宮から平安京、及び高野山の距離は全く等しく、石上神宮から平安京、及び高野山の距離も完璧なまでに一致しているのです。

カゴメ印がユダヤのシンボルであることや、剣山にはイスラエルのルーツが噂されていることから、その共通点を理解し、しかもそれらを幾何学的に統合できるような知識と地理感を兼ね備えていた人物は、空海以外に考えられません。空海はカゴメ印のデザインを聖地と関連付け、平安京やひいては高野山の位置までピンポイントで見出しただけでなく、逆三角形の三つの頂点にある聖地に、神宝の所在の謎を解く鍵を後世へのメッセージとして潜ませたのです。

空海がマスターマインドか?

しかし、どのようにして若年の空海が和気清麻呂と出会い、遷都の立案に関わることができたのでしょうか。まず空海は、ため池の多い四国剣山の出身で、土木事業に深い関心を持っていたことから、和気清麻呂と出会う機会があったのではないかと推測できます。また、和気清麻呂は長岡京周辺を拠点とする秦氏と繋がりがあり、イスラエルとの噂が絶えない秦氏だからこそ、空海との接点が生まれ、秦氏を介して和気清麻呂との出会いがあった可能性があります。

更に和気清麻呂と空海が再度山で繋がっているという事実に注目です。再度山の大龍寺は、お寺を建てる命を受けた和気清麻呂が768年に創設しましたが、この山こそ、空海が遣唐使として中国に渡る前と後に訪ねて祈願した重要な拠点です。これらの理由から、和気清麻呂と空海は平安京造営前に面識があったと思われます。そして空海の才能を知った和気清麻呂は、彼が見出した遷都の場所を天皇に進言したのでしょう。

また、二等辺三角形を重ねた細長いカゴメ印であり、正三角形ではない、という指摘については、古文書に登場する二つの神社を中心として全て対称的に線引きされたカゴメ印であることから、何ら問題は無いと言えます。新しい都を造営するにふさわしい場所を選別するにあたり、空海は、石上神宮と伊勢神宮を結ぶ線を中心として、伊勢と剣山を結ぶ線と対称となる線上に平安京の場所を見出しました。また、石上神宮への中心線を挟んで、平安京の対称となる場所を高野山と呼んだのです。

つまり伊勢神宮から平安京と高野山の距離は全く等しく、これらの聖地を結ぶと二等辺三角形になります。更に特筆すべきことに、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ一直線上にある逆三角形の頂点には、剣山と高野山までも一望することができる、六甲山脈沿いの再度山があることです。

そして再度山を頂点とする逆二等辺三角形の北側には亀山市の国分寺、南側には便石山が存在します。そしてこれら頂点に存在する聖地はイスラエルの神宝との関わりがあり、その謎を解くヒントが、実は「カゴメカゴメ」の歌のヘブライ語訳の中に含まれているのです。

しかしながら、高度な測量技術が存在しないはずの古代社会において、空海がどのようにして正確な位置を見極めることができたのか、今日では知る由もありません。はっきり言えることは、空海は頑強な脚力の持ち主であり、全国、至るところを行脚しながら多くの寺院を建立しただけでなく、中国に渡った際も、太平洋岸から1,200q以上離れた長安に数十日で辿り着いた位ですから、正に神業的な地理感を持っていたのでしょう。

また三世紀、唐の時代では、縮尺や方角、距離まで明記する地図を作成する手引きが公開され、かなり精巧な地図が作成されていることからしても、それから五世紀を経た空海の時代においては、かなり高度な技術が活用されていたと想定してもなんら不思議ではありません。その実態は今となっては解明できませんが、いずれにしても、空海の超人的な才能と天命が、不可能を可能にしたと言えます。

(古代史の散策を楽しむ Part.IIに続く)

(文・中島尚彦)

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